竹内孝仁氏によれば、
廃用性症候群とは、心身が活動しないために、
あるいは低い活動状況にあるために起こってくる
機能あるいは能力の低下のこと。
言葉は悪いかもしれませんが、ひらたく言うなら
「使わないとダメになるよ」ということで、
平成18年度からの新予防給付もこの点に焦点が当たっています。
同じく竹内氏は、この廃用性症候群について、
精神機能、心肺機能、運動器機能の低下の、
3つの分類を示しています。
興味深いのは精神機能の低下についての考察で、
それは「意欲の低下」ということについて述べられていて、
「平常よく働いている人が、日曜日に家にいると
何もする気が起こらなくなるということに似ている。
日曜日だから何もする気が起こらないのではなくて、
家にいるから何かをする気が起こらないのである。」
との論を展開しています。
竹内氏は、家に訪問して介護をするホームヘルパーの利用よりも、
少し無理してでも外出してデイサービスに行く方が、
よほど効果があがる、と言っていますが、
それは「家にいる」ことの弊害を根拠としているのでしょう。
この「日曜日だから何もする気が起こらないのではなくて、
家にいるから何かをする気が起こらないのである。」という話は、
原因と結果の取り違えを示していますが、
同様に、廃用性症候群の原因と結果を間違って解釈した場合、
あるいは拡大して解釈した場合には、
「衰えた人はちゃんとリハビリをやらなかったのだ」
「あの人はサボったから要介護になってしまったのだ」
という、ちょっと恐ろしい考え方もできてしまいます。
確かに介護予防という方向性は間違っていない。
誰だって要介護状態になんてなりたくない。
しかし、「老い」という人生の時期に至っては、
どうしようもない衰えもあるでしょうし、
自然の成り行きと言える衰えもあると思うのです。
繰り返しになりますが、が誰だってなりたくてなったわけではない「要介護状態」。
それを悪く言うような社会にだけはしたくない。
それを悪く言うようなら、社会全体が「姥捨て山」化してしまいます。
廃用性症候群の基礎知識を携えて
介護予防に取り組むのはもちろん大事。
すべてを仕方ないと自然のせいにしてしまうのは無知のなせる業とも言われかねません。
ただ、それと同じくらいのエネルギーをもってして、
要介護状態になっても安心できる環境づくりが大切だと思うわけなんです。
要介護状態になったら「あきらめ」しか残っていないような社会であってはいけない。
介護の本分は「安心感」を持ってもらうことではなかっただろうか。
利用者さんに「不安」を与えてどうしようというのだろう。
「要介護状態になっても」これまでと同じような豊かな生活が営めるようにしたい。
人間、要介護状態になったとしても、果たせる役目はたくさんあると思います。
そして、それは決して「介護予防」の発想とは矛盾しないと思うのです。
ここまで書いてくる中で、
つまるところ「介護予防」か「あきらめ」かなんて二元論で考えているうちは、
うまく決着のつかない議論なのだということに、今気がつきました。
介護とはそもそも、利用者さんがその方らしく豊かに生きるためにあるものです。
だとするならば、その目的に沿った形で、
その時その時に、一番適した形の予防プランを考えていけばよいわけで、
老いに伴う衰えに従ってその比重が小さくなったりすると考えます。
比重という言葉も適切ではないのかもしれません。
質が変わっていく、と言うイメージです。
そうやって、やがてこの世を旅立つその時まで絶え間なく、
その方らしい生き方を支えていくのが介護なのなかなあ、とぼんやりと考えています。
長い文章になってしまいましたが・・・
読んで頂いてありがとうございました。
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